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全く死にたいような気分だったけれど、それはそれでどこか却って清々しい気すらしたのだった。 「より良く生きよ・・・」 風のなか、だれかの声が遠くで聞こえたような気がして男は立ち止まったけれど、誰かがいるはずもなかった。神なんていない。神はもうとっくの昔に死んだのだから。
男はもう若くもなく、おまけにいつもひどく疲れていた。でも何がしかの矜持のようなものが 彼をずっと支えていたから何とか今まで生きてこれた。誰も彼を必要としなかったけれどそれでも平気だった。なにかもっと別の崇高な守るべきものがあるように思えたから。 でも今日、彼の矜持は脆くも崩れ去った。崇高なものなど何処にも無かったのだ。 これは多分よくあること。
男はかつては愛していたはずの妻との新婚旅行のために誂えた、黒いグローブトロッターのトランクに最低限のワードローブとわずかな現金だけを詰めると家を出た。 暖房の電源がちゃんと切れていることを2度確認し、戸締りもいつものように2度確認した。 妻は彼が出ていったことに気づきもしなかったけれど、幼い娘はすぐ気づいた。 「パパいってらっしゃい! お仕事がんばってね」 ドアの向こうからの朗らかな声。そのときだけは心がひどく痛んだ。少しだけ泣けてきた。
空港は雨に煙っていて、大きなガラスのむこうに赤い駐機灯が点滅しているのがぼんやりと見える。 この景色はどこかで見たことがあった。でもそれがどこだったか思い出せない。
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